岐阜空襲

岐阜空襲(ぎふくうしゅう)は、第二次世界大戦中、米軍により行われた岐阜県岐阜市に対する空襲

ここでは、1945年(昭和20年)7月9日の空襲を記述する。

空襲の概要

  • 昭和20年(1945年)7月9日午後11時頃、熊野灘から進入したB-29の編隊129機は、琵琶湖上空で方向を変え、関ヶ原より岐阜県に進入する[注釈 1]

出発・離陸

岐阜市への空襲は、グアム島北飛行場(ノースフィールド)を基地とする第314爆撃団が担当した[注釈 3]

グアム島ノースフィールド(北飛行場)に駐機しているB-29爆撃機1945年8月1日
グアム島ノースフィールド(北飛行場)に駐機しているB-29爆撃機(第314爆撃団に所属する第29爆撃群)1945年

攻撃を担当した135機が離陸した。そのうち12機はパスファインダーの役目(先行して飛行し、爆弾投下目標地に照明弾としての焼夷弾を投下して後続の爆撃機に知らせる役目)を負った[3]

往路

硫黄島上空を経由し、紀伊半島を目指して飛行した。途中、5機(爆撃担当4機、パスファインダー担当1機)が何らかの理由により飛行継続を断念し基地に戻った。

紀伊半島[注釈 4]から進路を北にとり、琵琶湖西岸を目指した。この地点を攻撃始点(IP)[注釈 5]として岐阜市街地へと侵攻した。

途中、1機が”Shingu”で爆弾を投下してしまった。岐阜市街地上空には129機が攻撃に向かった。

岐阜上空

岐阜市街地を爆撃[7]後、各務ヶ原(かがみがはら)の高射砲陣地を避けながら、離脱点[注釈 6]を経由し、本州の終わり地点へと飛行した[10]

復路・帰路

本州を離れ[注釈 7]、硫黄島上空を経由しグアム島北飛行場へ帰って行った。途中で、1機が4番エンジンから出火、主翼に火が広がりサイパンの西に墜落。他の爆撃機が生存者の海上標識を発見、駆逐艦に連絡し、3時間以内に乗組員全員が救助された[12]

日本側の反撃

  • 高射砲による反撃
  • 戦闘機による反撃

空襲による被害

  • 岐阜市中心部の地形や当時の気候条件により、投下された爆弾の量あたりの被害は甚大であった。被災面積は約5km2といわれている。被害状況は諸説あるが、主な資料によると、
  • 岐阜合同新聞(現岐阜新聞)1945年8月30日記事
    • 死者:818人
    • 負傷者:1,059人
    • 全半壊家屋:20,363戸
    • 罹災者:100,000人
  • 戦災復興誌(建設省
    • 死者:863人
    • 負傷者:520人
    • 全半壊家屋:20,476戸
    • 罹災者:86,197人
  • 他にも様々な資料[要文献特定詳細情報]があり、特に負傷者数は約500人~5,000人とまちまちである。

その他

  • 教育会館(旧岐阜県図書館)、乙津寺の石仏などに空襲の痕跡がある。
  • 岐阜駅周辺高架事業により、西陸橋(かつて岐阜県道151号が東海道本線を跨いでいた陸橋)が取り壊された際、空襲で破壊された日用品、瓦などが大量に見つかっている。また、やけ残された丸物百貨店(後の岐阜近鉄百貨店)が解体される際、被災した壁の一部が保存の為切り取られている。
  • 岐阜盲学校も空襲被害を受け、3人の生徒が亡くなった。空襲当日、戦禍を回避するため小坂井桂次郎校長より休校が宣言されたばかりの悲劇だった。

岐阜市平和資料室

岐阜空襲に関する資料は、岐阜市平和資料室で保管展示されている[13]

詳細は「岐阜市平和資料室」を参照

平和の鐘式典

岐阜市は1988(昭和63)年7月1日平和都市宣言を行った。1988(昭和63)年の「平和都市宣言」の願いに基づき、市民の平和への願いを共有し広げていくため平和啓発事業を行っている[14]。1990年から岐阜市役所主催で「平和の鐘式典」が開かれている[15]。場所は、岐阜市役所1階の市民交流スペース「ミンナント」。

脚注

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注釈

  1. ^ 基地を出発したときは、135機[1]だったが、途中で、何らかの理由により5機が基地に戻った。さらに、もう1機は、別の場所 ”Shingu”に6.3米トンの焼夷弾を投下した。地名場所は不明[2]。 岐阜上空に達したのは、129機だった。ただし、そのうちの1機は、“Nakazumi” (地名場所は不明)に2.4米トンを投下、残りは岐阜市街地に投下した。[3] 
  2. ^ B-29爆撃機129機が、高度 14,720 フィート(約4,487m)から 17,700 フィート(約5,395m)の範囲で、グリニッジ標準時091434Z から 091620Z (日本時間7月9日23時34分から7月10日1時20分)までの106分間、岐阜都市圏に 898.8米トン[4]の爆弾を投下した[2]。 
  3. ^ この日は、岐阜のほかに、仙台、堺、和歌山、内部川製油所(第2海軍燃料廠 三重県四日市市)が同時にアメリカ軍のB-29爆撃機によって空襲された。
  4. ^ 3353N - 13608E[5]。上陸地点は三重県熊野市近郊にある猪ノ鼻灯台(いのはな とうだい)付近
  5. ^ 3520N - 13605E (IP) [6]。攻撃始点(IPポイント)は現在の「滋賀県立びわ湖こども園」(滋賀県高島市安曇川町北船木2981)付近  
  6. ^ 3528N – 13710E[8]。攻撃終了地点。攻撃を終了し離脱する地点。現在の丸山ダム展望台(岐阜県加茂郡八百津町百津)付近。近くには、杉原千畝祈念館(岐阜県加茂郡八百津町八百津1071)[9]がある。
  7. ^ 343730N – 13803E[11]。日本本土の離脱地点。静岡県御前崎市付近。

出典

  1. ^ 作戦任務報告書(60) 1945, p. 13.
  2. ^ a b c 作戦任務報告書(60) 1945, p. 14.
  3. ^ a b 作戦任務報告書(60) 1945, p. 73.
  4. ^ アメリカの1トンは、2000ポンドであり、正確には、907.18474キログラムである。したがって、898.8米トンは815.4トンである。
  5. ^ Google Maps – 3528N - 13710E (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年3月12日閲覧
  6. ^ Google Maps – 3520N – 13605E (IP) (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年3月16日閲覧
  7. ^ 作戦任務報告書(60) 1945, p. 21.
  8. ^ Google Maps – 3528N – 13710E (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年3月12日閲覧
  9. ^ 杉原千畝記念館 (2000年). “杉原千畝記念館”. https://www.town.yaotsu.lg.jp/. 2024年3月12日閲覧。
  10. ^ 作戦任務報告書(60) 1945, p. 18.
  11. ^ Google Maps – 343730N – 13803E (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年3月12日閲覧
  12. ^ 作戦任務報告書(60) 1945, p. 16.
  13. ^ 篠崎喜樹. “岐阜市平和資料室2023 22 21”. 岐阜空襲を記録する会. 2024年3月10日閲覧。
  14. ^ 岐阜市役所 (2023年6月27日). “岐阜市の平和啓発活動”. https://www.city.gifu.lg.jp. 岐阜市役所. 2024年3月10日閲覧。
  15. ^ 岐阜新聞社 (2023年). “岐阜空襲から78年 岐阜市役所で平和の鐘式典 市民ら追悼、非戦の決意新たに (岐阜新聞Web”. https://www.gifu-np.co.jp/. 岐阜新聞社. 2024年3月10日閲覧。

関連項目

参考文献

  • 『熱き日の記録 岐阜空襲誌』(岐阜空襲誌編集委員会編 岐阜空襲を記録する会 1978年)NCID BA5968734X
  • 『岐阜も「戦場」だった 岐阜・各務原・大垣の空襲』(岐阜市平和資料室友の会 岐阜県歴史教育者協議 2005年)NCID BA73838580
  • 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp). “Nos. 257 through 261, Honshu targets, 9-10 July 1945. Report No. 2-b(60), USSBS Index; Section 7 (文書名:Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 53, Security-Classified Tactical Mission Reports of the 20th and 21st Bomber Commands, 1945 = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 第20, 21爆撃軍団作戦任務報告書) (課係名等:Intelligence Branch ; Library and Target Data Division) (シリーズ名:Tactical mission reports, XXI Bomber Command) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)” [第20、第21爆撃軍団作戦任務報告書(60) Nos. 257 through 261, Honshu targets, 9-10 July 1945. 本州の各都市:仙台、堺、和歌山、岐阜、内部川製油所(第2海軍燃料廠、三重県四日市市)(1945年7月9-10日)]. https://dl.ndl.go.jp/. 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp). 2024年3月10日閲覧。
  • “maps.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6612929.jpg” (JPG) [岐阜市街地図 (1945年 アメリカ軍作成) - アメリカ、テキサス大学オースティン校にあるペリーカスタネダ図書館所蔵の地図コレクション]. https://maps.lib.utexas.edu/ (1945年). 2024年3月10日閲覧。

外部リンク

  • 語り継ぐ戦争 岐阜空襲の恐怖を話す大脇雅子さん - YouTube(朝日新聞社提供、2018年7月8日公開)
  • “グアム島ノースフィールド(北飛行場)で整備を受けるB29爆撃機 ・・・「超」空の要塞 B29爆撃機 写真特集”. https://www.jiji.com/. 時事ドットコム (jiji.com). 2024年3月10日閲覧。
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ (2021年). “戦災概況図岐阜(せんさいがいきょうず ぎふ)”. https://www.digital.archives.go.jp/. 2024年3月10日閲覧。
  • 渡邉英徳(東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授)による「岐阜空襲」のモノクロ写真をカラー化。@hwtnv (2023年7月9日). "78年前の今日。1945年7月9日,岐阜空襲。". X(旧Twitter)より2024年3月10日閲覧