上杉憲英

曖昧さ回避 上杉教房」あるいは「上杉憲房」とは別人です。
 
凡例
上杉憲英
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 不明
死没 応永11年8月2日(1404年9月6日
氏族 山内上杉家庁鼻和上杉家
父母 父:上杉憲顕
兄弟 憲将、憲賢、能憲憲春憲方憲英憲栄岩松直国室、上杉朝房
憲光、只懸憲国、只懸憲輔、憲直
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上杉 憲英(うえすぎ のりふさ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武士庁鼻和上杉家初代当主。武蔵国庁鼻和城主。

略歴

上杉憲顕の六男として誕生した。母は木戸氏と伝えられる[1]

康応年間、現在の深谷市近郊に庁鼻和城を築城、庁鼻和(こばなわ)上杉家を名乗る。また、城内に国済寺を創建した[2]

武蔵平一揆新田義宗脇屋義治の反乱を鎮圧し、明徳3年(1392年)に奥羽地方が鎌倉府の管轄に移されると、奥州管領に任じられて嫡男の憲光とともに任にあたった[3]

なお、父の死後に弟の憲栄が越後守護職を継承することに異論を唱えたが、敗れている[4]

後に子孫の上杉房憲が深谷城を立てて深谷上杉家を名乗る。戦国時代中期には後北条氏に降り、氏憲の代には所領を失う。

脚注

  1. ^ 山口 2018, p. 80.
  2. ^ 持田 2018, p. 125.
  3. ^ 持田 2018, pp. 124–125.
  4. ^ 黒田 2014, pp. 236–237, 「氏満期の上杉氏」.

参考文献

  • 黒田基樹 編『足利氏満とその時代』戎光祥出版〈関東足利氏の歴史第2巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-106-6。 
  • 黒田基樹 編『関東上杉氏一族』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻〉、2018年。ISBN 978-4-86403-269-8。 
    • 山口平八「深谷上杉氏の興亡と深谷城の創築と開城」。 /初出:『深谷市史』深谷市、1969年。第5篇第16章。 
    • 持田勉「深谷(庁鼻谷上杉氏)-深谷上杉氏の系譜-」。 /初出:『埼玉史談』243号、1995年。 
上杉笹紋山内上杉家分家 庁鼻和上杉当主当主(初代)
山内上杉家

重房 - 頼重 - 憲房 - 憲顕 - 憲方 - 憲定 - 憲基 - 憲実 - 清方) - 憲忠 - 房顕 - 顕定 - 顕実 - 憲房 - 憲寛 - 憲政 - 輝虎(謙信) - 景虎 -

米沢上杉家

景勝 - 定勝 - 綱勝 - 綱憲 - 吉憲 - 宗憲 - 宗房 - 重定 - 治憲 - 治広 - 斉定 - 斉憲 - 茂憲 - 憲章 - 隆憲 - 邦憲 -

分家・支流

深谷上杉家

憲英 - 憲光 - 憲信 - 房憲 - 憲清 - 憲賢 - 憲盛 - 氏憲 - 憲俊 - 憲国 - 憲景 -

新田(麻布)上杉家

勝周 - 勝承 - 勝定 - 勝義 - 勝道 - 勝賢 - 勝憲 - 勝昭 - 孝久 -

御館の乱で景勝と争い、乱後の1580年には景勝に統一