田中千秋
天文観測家については「田中千秋 (天文観測家)」を、政治家で山口県長門市議会議員の田中千秋については「渡辺千秋 (歌手)」をご覧ください。 |
凡例 田中 千秋 | |
---|---|
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化12年(1815年) |
死没 | 安政元年8月30日(1854年10月21日) |
改名 | 田中秋太郎、新兵衛[1] |
別名 | 士禾(字)、紹斎(号)[2] |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行所 |
氏族 | 甲斐源氏佐渡田中家 |
父母 | 田中葵園、酒匂かつ |
兄弟 | 藤木実斎、田中千齢 |
テンプレートを表示 |
田中 千秋(たなか ちあき?)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。佐渡田中家12代。
経歴
文化12年(1815年)[2]保科家の次男として生まれ、田中葵園の養子となった[3]。文政12年(1829年)学問所見習、天保元年(1830年)金蔵役・学問所並役助、次いで学問所並役[4]。天保11年(1840年)2人扶持[4]。天保12年(1841年)沢根番所役[4]。
弘化3年(1846年)養父が死去し、後職を継いだ[4]。遺言状では、もし浪人になっても他国に出ず、真光寺・国分寺等に身を寄せながら再仕官を目指し、無理だった場合は医者になることを提案されている[5]。
安政元年(1854年)8月30日40歳で死去した[2]。法名は空谷院定誉秋水紹斎居士[4]。