常陸丸

常陸丸(ひたちまる)とは

  • 日本の商船の名前のひとつ。
  • 上記のうち、1898年(明治31年)に竣工して日本郵船が所有し運航していた貨客船。日本で初めて建造された、6000トンを超える商船である。日露戦争時の、いわゆる「常陸丸事件」で沈没。本項で記述。
  • 上記のうち、1906年(明治39年)に竣工して日本郵船が所有し運航していた貨客船。2. の代船として建造されたが、第一次世界大戦時にドイツ仮装巡洋艦「ヴォルフ」の攻撃を受けて沈没。本項で記述。

常陸丸・初代

常陸丸(初代)
初代「常陸丸」
基本情報
船種 貨客船
クラス 神奈川丸級貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
建造所 三菱合資会社三菱造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 5隻
信号符字 HNST
IMO番号 2331(※船舶番号)
建造期間 604日
就航期間 2,131日
経歴
起工 1896年12月21日[1]
進水 1898年4月16日[1]
竣工 1898年8月16日[1]
除籍 1904年6月15日
最後 1904年6月15日被弾沈没(常陸丸事件
要目
総トン数 6,172 トン[2]
垂線間長 135.64m[2]
14,99m
型幅 15.0m[2]
型深さ 10.21m[2]
ボイラー 石炭専燃缶
主機関 三菱三連成レシプロ機関 2基[2]
推進器 2軸[2]
出力 3,847HP[2]
速力 14.18ノット[2]
旅客定員 一等:24名
二等:20名
三等:116名[2]
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日本郵船が欧州航路の開設を計画したのは日清戦争終結後の1896年(明治29年)のことであり、新造船の投入は初めから計画されていたものの、その整備完了には相当の日数を要したため当面は購入した外国船をもって航路を維持することとなった[3][4]。欧州航路に投入される予定の船舶は、当初は4週に1回の配船として計画されていたため6隻の建造が計画されていたが、間もなく2週に1回の配船計画に改められたため、12隻の整備となった[5]。こうして整備されたのが神奈川丸級貨客船6隻と若狭丸級貨客船6隻である[5]。12隻のうち、10隻はグラスゴーの仲介業者を通じてイギリスの造船所で建造されることとなったが、神奈川級貨客船および若狭丸級貨客船のそれぞれの最終船は、三菱長崎造船所で建造されることとなった[5][6]。このうち、神奈川級貨客船の最終船が「常陸丸」である。姉妹船は「神奈川丸」、「博多丸」、「河内丸」、「鎌倉丸」、「讃岐丸」。

当時の日本の造船業は小規模なもので遅れていた[7]。日本政府は、造船工業育成のために1896年3月23日に造船奨励法を発布して造船業の発達を促したものの、発布してしばらくの間はあまり成果も上がらなかった[7]。その原因としては、日本の当時の技術力が鋼船を建造するレベルに何とか到達したものの大型船の建造可能な施設がなかったことや、造船材料の調達が外国頼みであったことがある[8]。そのような中で郵船が三菱長崎造船所に大型船の建造を依頼した詳しい経緯は不明であるが[注釈 1]、郵船の依頼を受けるまでに三菱長崎造船所が建造した最大の船は、大阪商船台湾航路に投入した貨客船「須磨丸」(1,592トン)であり、郵船が依頼した「常陸丸」は「須磨丸」の4倍の大きさであった[9]。「わが造船史上空前の大仕事」[10]に備え、三菱長崎造船所はイギリス人技術者を顧問として招聘し、一から設計したのでは間に合わないということでD・W・ヘンダーソン社から同型船の設計図を購入、同じ資材を注文して長崎に送る手はずを整えた[10]。「常陸丸」は1896年12月21日に起工し、建造途中からは、同型船の建造状況視察のために渡英していた塩田泰介(のち三菱長崎造船所所長)が建造主任として建造を監督することとなった[10]

「常陸丸」の建造は順調に進み、1897年(明治30年)10月ごろに進水する計画が立てられた[10]。ところが、思わぬ足かせが待ち受けていた。ロイド・レジスターから派遣されていた検査員が船体の検査にあたったあと、「リベットの打ち方が不完全である」と言った[10]。塩田以下監督官が検査を行って、不完全だと思われる部分は打ち直すこととした[10]。「わが造船史上空前の大仕事」ゆえに大型のリベット打ちに未熟な点があった可能性もあるが、ここで不思議なことが起こる。監督官の検査を終えてリベットを打ち直すたびに検査員は「不完全」と繰り返し、1898年(明治31年)1月にいたって「常陸丸」のロイド・レジスターへの登録を拒否すると言い出したのである[10]。塩田は造船所所長の荘田平五郎に相談し、60万本を超すすべてのリベットのうち、塩田の判断で「不完全」と思われたものに関しては打ち直すことが決まった[10]。これと並行して、三菱長崎造船所はロイド・レジスターに対して別の検査員を派遣するよう要請し、ロイド・レジスターは「不完全」と言った検査員を更迭して新たな検査員を派遣[10]。新しい検査員による検査の結果、リベットに不完全なところがないと認められた[10]。1898年4月16日、「常陸丸」は郵船の近藤廉平社長による命名を経て無事に進水、4か月後の8月16日に竣工した[10]

かくして「非常な犠牲」[11]を払い「本邦造船史上に一新時代を画し」[12]て竣工した「常陸丸」であったが、リベット問題で建造が遅延した影響は大であった。「常陸丸」に続く若狭丸級貨客船の最終船にあたる第2船が発注期限内に竣工することが絶望的となったため、本来の第2船として建造が予定されていた「信濃丸」(6,388トン)はD・W・ヘンダーソン社に建造が再発注する羽目となった[10][13]。第2船は予備船として改めて発注され、「阿波丸 (初代)」(6,309トン)として建造された[13]。郵船は工事遅延に関わる損害、契約期限遅滞による償金、第2船再発注による一切の諸経費の3つを三菱に求め、三菱側はこれら3つの経費をすべて支払った[10]。「常陸丸」建造から約40年後の1939年(昭和14年)には、「常陸丸」建造時の騒動は以下のような思い出話として、1939年当時の世界情勢に絡められつつ語られている。

日露戦争のあの常陸丸は六千トンという明治三十年前後の画期的巨船だが、この六千トン級六隻の建造計画を樹てた日本がうち五隻をイギリスに注文し常陸丸だけは大英断で三菱長崎造船所で造った 『果してこんな巨船が日本でできるだろうか?』とビクビクもので明治二十九年三月起工、同三十一年八月ヤッと竣工したが案の定、イギリスのロイドから『日本は柄にもない船を造ったがやっぱりなっちゃいない、リベットの打方はみんな駄目だからロイド船級の登録は落第だ』と頭ごなしに極めつけられ、三菱長崎造船所では□を低くしてわざわざロイド協会から検査員を招き摺った揉んだの揚句漸くパスしたという曰くつきの船である、それから四十年、支那事変をきっかけに澎湃として起った時代の声『ロイドがなんじゃい、日本にはチャンと明治三十二年以来帝国海事協会が生れているではないか!日本人は須く世界から正式に認められた帝国海事協会に入るだけでよろしい 高い検査料を払ってまで外国船級に入る必要はない』と最近続々とロイド船級の脱退が流行しているから痛快だ、常陸丸でイギリスから舐められた三菱長崎造船所は最近一年に二十二万九千トンという一造船所としての建造世界記録を作ってみごとにイギリスのお株を奪って四十年前の仇をうちとった — 「大阪朝日新聞」昭和14年6月3日[14]

「常陸丸」は6年近く欧州航路に就航ののち、日露戦争勃発に際して1904年(明治37年)2月に日本陸軍御用船となって軍事輸送にあたり、1904年6月15日に玄界灘でロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊の攻撃を受けて沈没した(常陸丸事件)。「常陸丸」の遺品は、艦隊の攻撃を受けて大破した輸送船「佐渡丸」(日本郵船、6,219トン)の乗組員が回収して排水作業に使用し、帰還後に三菱長崎造船所に形見として寄贈された甲板手桶のみであった[15]。「常陸丸」の甲板手桶はのちに、「常陸丸」に殉じて切腹して果てた後備近衛歩兵第一連隊長須知源次郎中佐の縁者で海事史家の山高五郎が預かり[注釈 2]、山高が「個人が私蔵して万一何かの不行届きがあっては申しわけない」という考えから本家の須知家を経て近衛歩兵第一連隊に寄贈されたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で連隊兵舎が焼失した際にともに焼失して現存せず、写真のみが残っている[15]

常陸丸の詳細な沈没場所は119年もの間、不明であったが、2023年令和5年)5月にテレビ番組の企画でBS-TBSが調査したところ、海底遺跡化した常陸丸を発見し、テレビ映像として収めるのに成功した[16]

常陸丸・二代目

常陸丸(二代)
二代目「常陸丸」
基本情報
船種 貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
建造所 三菱合資会社三菱造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 なし
信号符字 LCBS
IMO番号 10577(※船舶番号)
建造期間 542日
就航期間 3,984日
経歴
起工 1905年6月19日[17]
進水 1906年9月22日[17]
竣工 1906年12月12日[17]
除籍 1917年11月7日
最後 1917年9月26日に「ヴォルフ」が拿捕[18]
11月7日に爆沈処分[18]
要目
総トン数 6,716トン[18]
垂線間長 135.64m[18]
型幅 15.85m[18]
型深さ 10.21m[18]
ボイラー 石炭専燃缶
主機関 三菱三連成レシプロ機関 2基[18]
推進器 2軸[18]
出力 5,475IHP[18]
最大速力 15.676ノット[18]
旅客定員 一等:51名
二等:24名
三等:182名[18]
乗組員 117名
加賀丸・伊豫丸・安藝丸は準姉妹船
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初代「常陸丸」を失った郵船は代船の建造を計画し、三菱長崎造船所に建造を発注する。日露戦争最末期の1905年(明治38年)6月19日に起工した代船は初代を襲名する形で「常陸丸」と命名され、1906年(明治39年)9月22日に進水、12月12日に竣工した。

初代「常陸丸」の経験により、三菱長崎造船所で建造される大型船も7,000トンを超える「丹後丸」(日本郵船、7,463トン)が1905年に竣工し、二代目「常陸丸」が起工して4日後の6月23日には、日本で初めての1万トンを超える商船の「天洋丸」(東洋汽船、13,454トン)および同型の「地洋丸」(東洋汽船、13,426トン)が起工するなど[17]、三菱長崎造船所の発展は目を見張るものがある。しかし、代船として建造された二代目「常陸丸」は7,000トンを割る船型であり、また同型船がない単一クラスの貨客船である。日本の貨客船のクラスの歴史上のうち、欧州航路就航船の観点から言えば神奈川丸級貨客船および若狭丸級貨客船と8,000トン超の賀茂丸級貨客船の間に属する[19]。船名に関しては、山高は「わが国では一般に不幸な艦船名は再用しない習わしであるが、初代常陸丸はいわば名誉の戦死とみて同じ名がつけられたものであろう」と説明するが[20]、この「習わし」の由来のうち半分は不明である[注釈 3]

竣工後の二代目「常陸丸」は初代と同様に欧州航路に就航する。ところが1912年(明治45年)4月22日、横浜港に停泊中の「常陸丸」の機関部員28名が、横浜港碇泊中の東洋汽船の貨物船が待遇改善を求めてストライキを起こしたのに乗じてストライキに入り、ストライキの波は横浜港に停泊中の他の商船にも波及して、商船の出港に支障を出す騒ぎが起こった[21]。やがて欧州航路に1万トンクラスの新鋭船が投入されるに及んで「常陸丸」は他の航路に配されることとなり[22]1915年(大正4年)ごろには豪州航路に配船[23]1916年(大正5年)には欧州航路に復帰するが、新鋭船就航のあとでは「一等船では無い」という評価であった[24]1917年(大正6年)8月下旬には他船で起こったストライキ騒ぎに再び乗じる[25]

1914年には第一次世界大戦が始まっており、ドイツによる通商破壊作戦によってイギリス近海は危険水域となっていた。日本郵船はイギリス航路の配船を停止していたが、英・日両政府の強い要請により、リバプール航路を再開することになった。1917年日本を出帆した「常陸丸」は9月17日にペナンに寄港し、次いでコロンボにも寄港して9月22日に出港しケープタウンに向かった[26]。4日後の9月26日、「常陸丸」は仮装巡洋艦「ヴォルフ」と遭遇して砲撃を受ける[20][27]。砲撃により船員14名とインド人2名が死亡[27]。残る乗客44名(うち日本人3名)と乗組員117名は「ヴォルフ」に収容された[20][27][28]。「常陸丸」は最終的には11月7日に爆沈処分に付され、二代続けて戦禍に倒れるという結末となった[20]。「ヴォルフ」は「常陸丸」を処分してからスペイン貨物船「イゴッツ・メンディ」(Igotz Mendi) を拿捕し、乗客12名と日本人メイド1名は「イゴッツ・メンディ」に移される[27]。「イゴッツ・メンディ」に移された乗客に日本人は含まれていなかったとも報じられる[27]。「常陸丸」船長富永清蔵は[28]、郵船社長、一等運転士および夫人宛ての遺書をしたためたあと、1918年(大正7年)2月7日に「ヴォルフ」がデンマーク海峡に差し掛かったところで入水して自殺した[20]。「イゴッツ・メンディ」は「ヴォルフ」から分離したあとにデンマーク沿岸で座礁し、上陸・保護された「常陸丸」捕虜から郵船ロンドン支店を通じて「常陸丸」の消息が伝えられた[27]

脚注

注釈

  1. ^ #山高 p.101 では「長崎造船所が進んで建造を引き受けた」とあり、一方で#郵船100年史 p.67 では、「郵船が日本の造船業の発達を促すために」という趣旨の説明がなされている。
  2. ^ 預かった当時は三菱長崎造船所勤務(#山高 p.104)
  3. ^ 回航途中に行方不明となった日本海軍の防護巡洋艦「畝傍」や青島の戦いで沈没した「高千穂」、事故で爆沈した「松島」などの艦名は再度の使用がなされていないが、太平洋戦争で戦没した商船、例えば郵船の「浅間丸」や「対馬丸」(#郵船100年史 p.367,518)、大阪商船の「ぶえのすあいれす丸」や「ぶらじる丸」などには二代目や三代目がいる。

出典

  1. ^ a b c #創業百年の長崎造船所 pp.524-525
  2. ^ a b c d e f g h i #日本の客船1 p.51
  3. ^ #山高 pp.99-100
  4. ^ #郵船100年史 p.66
  5. ^ a b c #日本郵船株式会社百年史 p.119
  6. ^ #山高 p.101
  7. ^ a b #郵船100年史 p.67
  8. ^ #日本近世造船史 pp.597-598
  9. ^ #山高 p.103,171
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m #山高 p.103
  11. ^ #中外240906
  12. ^ #時事270803
  13. ^ a b #日本郵船株式会社百年史 p.120
  14. ^ #大朝39060104
  15. ^ a b #山高 p.104
  16. ^ TBSテレビ (2023年8月12日). “幻の“海底遺産”119年ぶりに発見!日露戦争で沈んだ悲劇の“常陸丸””. TBS NEWS DIG. 2023年8月14日閲覧。
  17. ^ a b c d #創業百年の長崎造船所 pp.528-529
  18. ^ a b c d e f g h i j k #日本の客船1 p.55
  19. ^ #日本の客船1 pp.54-55
  20. ^ a b c d e #山高 p.146
  21. ^ #中外12042528
  22. ^ #大毎140624
  23. ^ #大毎151008
  24. ^ #大毎1610181231
  25. ^ #大新170829
  26. ^ #万朝報180112
  27. ^ a b c d e f #東朝180303
  28. ^ a b #東朝180301

参考文献

  • 新聞記事文庫(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
    • 中外商業新報(1912年4月25日 - 28日)『横浜碇泊船下級海員罷業』。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100169430 
    • 大阪毎日新聞(1914年6月24日)『郵商両社新造船』。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100142272 
    • 大阪毎日新聞(1915年10月8日)『対外航路盛況』。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100183029 
    • 大阪毎日新聞(1916年10月18日 - 12月31日)『蘭領印度 (一~二十一)』。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100382921 
    • 大阪新報(1917年8月29日)『郵船下級船員不穏 宮崎丸船員待遇問題より伊予丸常陸丸船員の不平。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100226739 
    • 万朝報(1918年1月12日)『常陸丸に就て種々な取沙汰』。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100117394 
    • 東京朝日新聞(1918年3月1日)『常陸丸撃沈の報 大西洋、印度洋、太平洋を荒して帰国した怪独船の為に被害船頗る多し。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100121115 
    • 東京朝日新聞(1918年3月3日)『悲壮なりし常陸丸の最期 ウォルフ号と砲火を交え船長は自殺し死傷多し。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100121115 
    • 中外商業新報(1924年9月6日)『波瀾縦横のわが造船業 海上の覇者たるにはその振興が必要である。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100127300 
    • 時事新報(1927年8月3日)『九州に於ける大工業三菱の長崎造船所 創業四十余年、幾多の変遷を経て世界的大工場を完成。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100169666 
    • 大阪朝日新聞(1939年6月1日 - 6月4日)『造船日本の凱歌』。https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100188838 
  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 
  • 造船協会(編)、成瀬恭(発行人)『日本近世造船史 明治時代』原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6。 
  • 財団法人日本経営史研究所(編)『日本郵船株式会社百年史』日本郵船、1988年。 
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2。 
  • John Walter, The Kaiser's Pirates: German Surface Raiders in World War One, Arms and Armour Press, 1994, ISBN 1-85409-136-0

関連項目