吉良満義

 
凡例
吉良満義
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 正平11年/延文元年9月23日(1356年10月17日[1]
改名 吉良満義→寂光寺[1]
別名 通称:三郎[1]
戒名 寂光院殿
墓所 安休寺・花岳寺 (西尾市)
官位 左兵衛佐[1]中務大輔[1]左京大夫[1]
幕府 室町幕府 信濃守護
主君 足利尊氏直義
氏族 三河吉良氏
父母 父:吉良貞義
兄弟 満義、助時
満貞一色有義尊義、岡山満康、橋田満長
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吉良 満義(きら みつよし)は、南北朝時代の武将信濃国守護三河国西条城主。

生涯

元弘の乱で倒幕の兵を挙げた足利尊氏に従い、京都の六波羅探題攻撃に参加。倒幕後に建武の新政が開始されると、足利直義に従い関東に下向し、建武元年(1334年)正月には関東廂番六番頭人に任命された[注釈 1]

建武2年(1335年)2月、信濃国北条氏残党が活動を始めると、これを鎮圧するため、一族の吉良時衡を信濃へ派遣した[注釈 2]。時衡は信濃守護小笠原貞宗と共に軍を指揮したが、鎮圧は成功せず北条時行武蔵国進出を許してしまい、これが鎌倉陥落へと繋がる(中先代の乱)。乱が勃発した時点での満義の居所は不明[注釈 3]だが、以降、延元元年(1336年)の南北朝の分裂までの間、尊氏・直義に従い各地を転戦する。

延元3年/建武5年(1338年)1月の美濃国青野原の戦いに参加した後、興国元年/暦応3年(1340年)から翌年にかけては信濃守護職に就いていたという[注釈 4]。興国5年/康永3年(1344年)3月、幕府引付方の一番頭人に就任し、直義の政務を補助する。直義が満義に寄せる信頼は非常に厚く、直義の嫡男である如意丸は、正平2年/貞和3年(1347年)満義の宿所で誕生している[2]。また、同じ頃、陸奥国へ赴いた吉良貞家満家父子の領地であった吉良東条を接収している[注釈 5]。貞和5年(1349年)、直義の命により、光厳上皇を警固している[3]

西尾市花岳寺にある満義の墓

観応の擾乱では、終始直義側に立ち[4]、尊氏から満義・満貞父子は「吉良荘の凶徒」と呼ばれる[注釈 6][5]。正平7年/観応3年(1352年)2月に直義が没した後も容易に尊氏には降らず、数年にわたり南朝に属して抵抗を続けた。その後、嫡男・満貞と袂を分かち[注釈 7]北朝に帰順。

しかし近年では、満義は尊氏に与していたのではないかという見方もでてきている[3]1351年(観応2年)正月15日に、直義方の桃井直常と、足利尊氏・足利義詮高師直らの軍勢が京都で激突した際、尊氏は満義(左京大夫)の宿所(二条京極千手堂)に陣を構えており[3]、このとき満義は尊氏の陣営にいたものと思われる[6]。翌16日に尊氏が丹波に逃れると満義の宿所は焼失してしまう。このように吉良氏は父子で陣営が割れ、1351年(観応2年)7月30日に足利直義が京都を脱出し北陸へ向かった時も、満貞は従ったが満義はそのメンバーの中には見えていない。満義は直義方としては確実なところでは見えておらず、前述の尊氏が進路妨害を予想していた「吉良荘の凶徒」も吉良満貞に従う人々のこととみられる[7]というものである。

正平10年/文和4年(1355年)に南朝軍が京都を占領した際は、近江国に下向していた後光厳天皇の警備を尊氏から任されている。翌年の2月18日には、北国の敵方が山門の悪僧とともに乱入する危険性を奏上するなど、京都内外で天皇と直結した活動をする満義の姿が見られる。この時期の満義は右兵衛督[注釈 8]の官途や四位の位階を持ち、牛車の使用を許され、昇殿を認められており、これらの事情と関係があると思われる[8]

正平11年/延文元年(1356年)9月23日、死去[1]。三河国吉良荘(現西尾市)にあったとみられる塔頭から「寂光寺殿」と称された。晩年は京都東福寺・三河国実相寺臨済宗聖一派)の仏海禅師(一峰明一)と緊密な関係にあったらしく、仏教に深く帰依していた[9]

脚注

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注釈

  1. ^ 一族である吉良貞家も三番頭人に任命されている。
  2. ^ 師守記興国6年(1345年)6月20日条。
  3. ^ 太平記』では直義救援のため京都から関東へ下る尊氏の先鋒として満義の名を挙げているが、同じ『太平記』の別版では直義とともに鎌倉を落ちたとされている。
  4. ^ 『市河倫房軍忠状』より前述の吉良時衡が同国守護代に就いていたと考えられる。
  5. ^ 正平2年/貞和3年(1347年)4月の花岳寺(愛知県西尾市吉良町岡山、東条に属する)開創は、満義の命によると考えられている。
  6. ^ 正平6年/観応2年(1351年)11月20日付け『土岐右馬権頭頼康宛足利尊氏書状』。尊氏の関東下向の際、吉良勢が三河でその進軍を妨害した際の書状。
  7. ^ 尊氏が長年反抗を続けた満貞の帰順を許さず、やむなく満義のみ帰順したとする見方もある。
  8. ^ 記録には「左兵衛督」「右兵衛督」「左兵衛佐」とあり、観応2年6月17日までの「左京大夫」から変化している。ただし「左兵衛督」は足利氏の官途であり、当時の記憶を持つ今川了俊が著した『難太平記』は満義を「右兵衛督」と記しているので「右兵衛督」であったとみている。(『新編西尾市史』391ページ)

出典

  1. ^ a b c d e f g 小川 1997.
  2. ^ 谷口 2022, pp. 57–58.
  3. ^ a b c 谷口 2022, p. 58.
  4. ^ 亀田 2017, p. 59.
  5. ^ 小松 1997, p. 381.
  6. ^ 西尾市 2022, p. 385.
  7. ^ 西尾市 2022, p. 386.
  8. ^ 西尾市 2022, p. 390.
  9. ^ 西尾市 2022, p. 391.

参考文献

  • 『吉良町史 中世後期・近世』
  • 北原正夫『室町期三河吉良氏の一研究』
  • 小川信「吉良満義」『国史大辞典』吉川弘文館、1997年。 
  • 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6。 
  • 亀田俊和『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』中央公論新社、2017年7月。ISBN 978-4-12-102443-5。 
  • 小松茂美『足利尊氏文書の研究 3 (解説篇)』旺文社、1997年9月。ISBN 978-4-01-071143-9。 
  • 新編西尾市史編さん委員会編『新編西尾市史 通史編1 原始・古代・中世』愛知県西尾市、2022年10月。