レシェク2世チャルヌィ(Leszek Czarny, 1241年 - 1288年9月30日)は、ポーランド大公(在位:1279年 - 1288年)。シェラツ公(在位:1261年 - 1288年)、ウェンチツァ公(在位:1267年 - 1288年)、サンドミェシュ公(在位:1279年 - 1288年)でもあった。クヤヴィ公カジミェシュ1世(マゾフシェ公コンラト1世の子)と、シロンスク公ヘンリク2世の娘コンスタンツィヤ(pl:Konstancja wrocławska)の子。ジェモミスウの同母弟、ヴワディスワフ1世、カジミェシュ2世、シェモヴィトの異母兄。妻はスラヴォニア公ロスティスラフ(キエフ大公ミハイル2世の子)とハンガリー王ベーラ4世の娘アンナの娘アグリッピナ。黒公(Czarny)と呼ばれる。
1261年に父からシェラツ公国を譲られ、1267年の父の死でウェンチツァ公国も獲得した。1279年に従伯父に当たるボレスワフ5世が子供の無いまま亡くなったため、ポーランド大公に即位した。治世中にヴロツワフ公ヘンリク4世と紛争を起こし、1287年にはノガイによるモンゴルの3度目のポーランド襲撃が起こった。
1288年に死去。子供が無かったため、異母弟のヴワディスワフ1世とヘンリク4世が争った末、ヘンリク4世が大公位を継承した。
- 先代
- カジミェシュ1世
| - シェラツ公
- 1261年 - 1288年
| - 次代
- ヴワディスワフ1世
|
- 先代
- カジミェシュ1世
| - ウェンチツァ公
- 1267年 - 1288年
| - 次代
- カジミェシュ2世
|
- 先代
- ボレスワフ5世
| - サンドミェシュ公
- 1279年 - 1288年
| - 次代
- ボレスワフ2世
|
ポーランド君主 |
---|
伝説的な首長 | |
---|
半伝説的な首長 | |
---|
ピャスト朝 | |
---|
プシェミスウ朝 | - ヴァツワフ2世1296–1305
- ヴァツワフ3世1305–1306
|
---|
クヤヴィ・ピャスト朝 | - ヴワディスワフ1世ウォキェテク1306–1333
- カジミェシュ3世ヴィエルキ1333–1370
|
---|
アンジュー朝 | - ルドヴィク1世1370–1382
- ヤドヴィガ1382–1399
|
---|
ヤギェウォ朝 | - ヴワディスワフ2世ヤギェウォ1386–1434
- ヴワディスワフ3世ヴァルネンチク1434–1444
- カジミェシュ4世1447–1492
- ヤン1世オルブラフト1492–1501
- アレクサンデル1501–1506
- ジグムント1世スタルィ1506–1548
- ジグムント2世アウグスト1548–1572
|
---|
選挙王制 | 初期 | - ヘンリク・ヴァレジ1573–1574
- アンナ1575–1586
- ステファン・バートリ1576–1586
|
---|
ヴァーサ家 | - ジグムント3世1587–1632
- ヴワディスワフ4世1632–1648
- ヤン2世カジミェシュ1648–1666
|
---|
中期 | - ミハウ1669–1673
- ヤン3世1674–1696
|
---|
ザクセン家と レシチニスキ家 | - アウグスト2世モツヌィ1697–1706
- スタニスワフ1世1706–1709
- アウグスト2世モツヌィ(復位)1709–1733
- スタニスワフ1世(復位)1733–1736
- アウグスト3世1734–1763
|
---|
ポニャトフスキ家 | |
---|
|
---|
ワルシャワ公 | |
---|
ロマノフ朝 | - アレクサンデル1世1815–1825
- ミコワイ1世1825–1855
- アレクサンデル2世1855–1881
- アレクサンデル3世1881–1894
- ミコワイ2世1894–1917
|
---|
|
典拠管理データベース |
---|
全般 | |
---|
国立図書館 | |
---|
人物 | |
---|
その他 | |
---|