トヨタ・セリカLBターボ
カテゴリー | グループ5 スポーツカー | ||
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コンストラクター | トヨタ | ||
主要諸元 | |||
エンジン | トヨタ 18R-G 2,090 cc (127.5 cu in) I4 ターボチャージャー フロントエンジン, 縦置き | ||
トランスミッション | 5速 MT | ||
重量 | 860 kg (1,896.0 lb) | ||
燃料 | シェル | ||
タイヤ | ダンロップ | ||
主要成績 | |||
チーム | シュニッツァー・モータースポーツ トムス トラスト | ||
ドライバー | ハラルド・アートル ロルフ・シュトメレン 舘信秀 | ||
初戦 | 1977 DRM ホッケンハイム | ||
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トヨタ・セリカLBターボは、ドイツ・トヨタがドイツレーシングカー選手権(DRM)のディビジョン1に参加するため、初代トヨタ・セリカの2000GT、リフトバック(LB)をベースにシュニッツァーによって開発されたグループ5カーである。
1977年と1978年にドイツのDRMシリーズに参加した。 信頼性の問題に悩ませられたが、2度の完走とノンチャンピオンシップレースで優勝した。 その後、日本に送られ、シルエットカーレースに参戦した。
ドイツのレースに参戦したシーズンを通じて、トップディビジョンを走る唯一の日本車であった。
開発
セリカLBターボは、当時国際的にモータースポーツを席巻し、ドイツレーシングカー選手権(DRM)シリーズのグループ5カテゴリであるディビジョン1も同様に支配したポルシェ・935に対抗するために開発された。
多くのグループ5車両と同じく、車体に大規模な改造を受けており、大部分が軽量なグラスファイバーで作り直された。ただし、ボンネット、ルーフ、ドアとレールパネルはベースモデルのものを使用している。ドアパネル前後のワイドフェンダーと、ヘッドライトと長方形のグリルを包み、ボンネットを越えて傾斜しているフロントノーズが特徴である。
エンジンは市販車に搭載される18R-G型エンジンをベースに2,090ccまでボアアップし、特別設計の16バルブヘッドとクーゲルフィッシャー製の燃料噴射装置が組み合わせられ、KKK製のターボチャージャーで過給し、最高出力560ps(418kw)を発生した。[1][2]
ボディカラーは1977年シーズンが青、1978年シーズンは赤と白のツートンに変更された。同時に空力を改善するためボディワークにも修正が加えられ、エンジンもツインターボ化された。両シーズンとも、光学メーカーのローデンストックによるスポンサーシップがあった。
1977年
1977年7月、ホッケンハイムリンクにてF1ドイツグランプリのサポートイベントとして開催された、DRMシリーズの第8戦でデビューを飾った。ドライビングはハラルド・アートルが担当したが、予選はポールポジションの935から25秒遅れの13位、決勝では4ラップでリタイアした。次ラウンド8月のゾルダーでは、ポールの935より5秒遅れの予選7位につけたが、決勝は3ラップでリタイアした。10月の最終戦ニュルブルクリンクにおいて初完走を果たし、プライベーターのポルシェ3台に続く4位でフィニッシュした。[3]
その後、ゾルダーで行われたノンタイトルレースのADACトロフィーへ出場し、初優勝を果たした。
1978年
前年ポルシェで活躍したディフェンディングチャンピオン、ロルフ・シュトメレンをドライバーに迎えた。第1戦のゾルダーでは、2周目にエンジン故障でリタイア。第2戦ニュルブルクリンクは欠場し、同じくニュルブルクリンクで開催されたアイフェル・レンネンがサポートする第3戦では、わずか4周でリタイアした。
アヴスで行われた次戦を欠場し、ニュルブルクリンク1000kmに出場した。シュトメレンはアートルと組んで参戦し予選6位につけたが、決勝はウォーターポンプとエンジンの故障でリタイアした。次戦のマインツフィンテンでは、7台の935に続く8位でフィニッシュした(935以外では最高位)。
2戦を欠場した後のホッケンハイムでは7周目でクラッシュしリタイア。次戦のゾルダーでは1ラップも走り切ることなくリタイアした。ゾルダーに向かう途中の事故が元で社長だったヨーゼフ・シュニッツァーが亡くなり、この時点で2戦が残っていたがセリカがレースに戻る事はなかった。[4]
その後、シュニッツァーはBMWでの活動に専念し、成功を収めた。
日本
1979年、セリカはトムスによって日本国内に輸入され、同社の創設者、舘信秀のドライビングで富士スーパーシルエットシリーズに参戦した。赤と白のツートンカラーは1978年と同じままで、スポンサーのみチェックマン、タミヤ、髙島屋[5]に変更された。9月に開催された富士インター200マイルレースでは、優勝を果たしている。翌年トムスは、童夢と共同でRA40系セリカをベースに新しいシルエットマシンを開発し、そちらに注力していく[6]。
1981年には、トラストから星野薫のドライブで富士スーパーシルエットシリーズに参戦した。9月に行われた富士インター200マイルレースにて3位に入賞している。1982年には「トラストツインターボセリカ」としてエントリーした。
1983年、トラストは新たに購入したポルシェ・956で全日本耐久選手権へ参戦するためセリカLBターボは使用されなくなり、同年RRC筑波チャンピオンズレース最終戦が最後のレースとなった。
その後長らく本車の消息は不明となっていたが、2000年代になってトラストカラーの個体が国内の廃車置き場に放置されている姿が確認されている[7]。
後にレーシングパレスがその個体を入手、レストアされて1977年当時のカラーリングになっている。[8]
脚注
- ^ “:::: GREAT RACING CARS :::: Toyota Celica LB Turbo Gr5 Page 1 of 2”. Racing65.com. 2010年9月19日閲覧。
- ^ “:::: GREAT RACING CARS :::: Toyota Celica LB Turbo Gr5 Page 2 of 2”. Racing65.com. 2010年9月19日閲覧。
- ^ “DRM 1977 Result”. wspr-racing.com. 2010年9月27日閲覧。
- ^ “DRM 1978 Result”. wspr-racing.com. 2010年9月27日閲覧。
- ^ 当時、高島屋の関連企業として「トヨタカローラ高島屋」が存在した。
- ^ “DOME CELICA TURBO 1980”. 株式会社 童夢. 2021年9月9日閲覧。
- ^ Zillin, Adam (2009年8月9日). “Abandoned In Japan: The Schnitzer Group 5 Celica”. 7Tune.com. 2010年9月19日閲覧。
- ^ 『CAR GUY magazine 4』シグマプランニング、07/01、109頁。
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