サミュエル・モールス

サミュエル・モールス
1840年の写真
生誕 Samuel Finley Breese Morse
(1791-04-27) 1791年4月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州チャールズタウン
死没 (1872-04-02) 1872年4月2日(80歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 画家発明家
著名な実績 モールス符号
署名
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サミュエル・フィンリー・ブリース・モールス英語: Samuel Finley Breese Morse1791年4月27日 - 1872年4月2日)は、アメリカ画家発明家。モールス電信機を発明し、モールス符号に名を残した。画家としても名を成している。

また、アメリカ合衆国における奴隷制確立を支持し、反カトリックと反移民運動も支援した。

生い立ち

モールスの生家(チャールズタウン、1898年ごろの写真)

マサチューセッツ州チャールズタウン市(現ボストン市)生まれ。父はイギリス移民牧師で、「アメリカ地理学の父」と称されるジェディディア・モールス (1761 - 1826)、母はアン・フィンリー・ブリース (1766 - 1828) である[1]。父はカルヴァン主義の有名な伝道師連邦党の支持者だった。彼はピューリタン的伝統の保持を望み、連邦党がイギリスとの同盟と強い中央集権政府を目指していると考えていた。教育についても連邦主義的枠組みを信じ、長男には、カルヴァン主義の道徳や慣習を教え込んだ。

マサチューセッツ州アンドーヴァーのフィリップス・アカデミーで学び、イェール大学に進学して宗教哲学や数学を学ぶ。また、イェール大学在学中にベンジャミン・シリマンやジェレマイア・デイの電気についての講義を受けている。絵画の才能を発揮し、それで身を立てるようになった。1810年、イェール大学卒業[注釈 1]

絵画

モールスの描いた『ピルグリムの着陸』は、敬虔な表情で整然と並ぶ人々を描き、当時の宗教的熱情を表現しています。この作品は、モールスのプロテスタント信仰と、新大陸への希望を象徴するものでした。この作品は著名な画家ワシントン・オールストンの注目を惹きつけました。オールストンは当時アメリカで最も尊敬される画家の一人であり、ヨーロッパの美術界とも繋がっていました。オールストンはモールスの才能を認め、彼をイギリスに連れて行き、当時ヨーロッパ絵画の中心地であったロンドンで活躍する画家ベンジャミン・ウエストに紹介することを決意しました。オールストンはモールスの父と相談し、ヨーロッパで本格的に絵画を学ぶための支援を行うことを約束しました。1811年7月15日、モールスはオールストンと共にリビア号という船で出航し、夢に満ちたヨーロッパへと旅立ちました。

Dying Hercules (1812)

イングランドで、モールスはオールストンから絵画技法を徹底的に教え込まれた。1811年末、王立芸術院への入学許可を得る。そこでルネサンス新古典主義の作品に感動し、ミケランジェロラファエロの作品をじっくり観察した。人物の写生の訓練をし、解剖学的知識を吸収すると、モールスは初期の傑作とされる Dying Hercules を完成させた(絵画の前に習作として彫刻を作っている)。

Dying Hercules は、イギリスと連邦党への政治的声明として解釈されることもありました。しかし、この作品は 1812 年に制作されており、米英戦争勃発前であり、連邦党と反連邦党の対立が最も激化していた時期でした。そのため、作品の内容は、戦争や政治情勢ではなく、より普遍的なテーマである英雄の死と再生を表現していると考えられます。

戦争が本格化するにつれ、モールスの両親への手紙は次第に反連邦主義的な色彩を強めていった。1812年5月27日付けの手紙では、彼はこう訴えている。「北部諸州の連邦主義者が暴力的な手段に訴えることで、フランスとの同盟よりも国家に多くの損害を与えている。彼らの議事録はイギリスの新聞にも掲載され、議会で朗読され、国中に流布されている。彼らは連邦主義者を臆病者と呼び、国家への反逆者として絞首刑に処すべきだと主張している。」[要出典]

父はモールスの政治思想を変えることはできなかったが、彼に影響を与え続けた。評論家は、モールスのイングランドにおけるもう一つの傑作である「ユピテルの審判」に、父のカルヴァン主義的な考え方からの影響を見出している。この作品では、鷲を伴ったユピテルが群衆の上に両腕を広げて立ち、審判を下している。マルペーッサは罪悪感と恥辱を表現するように夫の腕に身を投げ出そうとしている。優しくマルペーッサを愛していたイーダースは彼女を抱きとめようと急いでおり、アポローンは彼女の思いがけない決心に驚いて凝視している。

評論家は、ユーピテルが神の全能性(全ての出来事を見ている)を表していると示唆している。不倫に対する道徳観を表していると見る者もいる。19世紀初期のアメリカの絵画は宗教的テーマを扱ったものが多く、モールスの作品もその初期の例である。Judgment of Jupiter はモールスの宗教的信念を表すと同時に反連邦主義者への支持を表明した作品とされる。ウエストはこの作品を展覧会に出品しようとしたが、モールスの帰国のときが近づいていた。1815年8月21日イングランドを発ち、アメリカに戻ると画家として活動を開始した。

ジョン・アダムズの肖像画

1815年から1825年まで、モールスは画業に専念し、アメリカ文化と社会の写実的な描写を追求しました。 1816年には、連邦党所属の元大統領ジョン・アダムズの肖像画を描き、高い評価を得ました。

ダートマス大学では、連邦主義者と反連邦主義者の対立が激化していました。 1817年、モールスは大学学長 Francis Brown と対立したウッドワードの肖像画を依頼されましたが、この作品はダートマス大学訴訟(1819年)の争点の一つとなりました。

その後、モールスはサウスカロライナ州チャールストンへ移住し、上流階級からの肖像画依頼を受けました。 1818年に描いた Mrs. Emma Quash の肖像画は、当時のチャールストンの繁栄を象徴する作品として知られています。

若い画家として順調なキャリアを築いていたモールスでしたが、1819年に経済恐慌が発生すると、絵画の需要が激減し、生活は困窮しました。 カルヴァン主義では恐慌による社会不安を解決できず、モールスの父は30年間務めた牧師職を辞任せざるを得ませんでした。

さらに、教会はユニテリアン主義の支部となり、カルヴァン主義を信奉するモールス一家とは対立することになりました。 この神学的な対立は政治的な対立にも発展し、モールス一家は反連邦主義の立場を取るようになりました。

モールスは父の宗教的信念を尊敬していたが、政治的にはユニテリアンと近い考え方だった。モールスはニューハンプシャー州ポーツマスの有名なユニテリアンへの改宗者 Pickerings の肖像画も描いている。ユニテリアンへの共感は反連邦主義的考え方の表れと捕らえる評論家もいる。1820年、当時の大統領ジェームズ・モンローの肖像画を描いた。

The House of Representatives (1822-23)

そのころニューヘイブンに移住。1821年、議会の様子を絵にするよう依頼された。当時フランソワ・マリウス・グラネThe Capuchin Chapel in Rome という絵がアメリカ各地で25セントの入場料をとって展示され成功を収めていた[2]アメリカ合衆国下院を描いた House of Representatives もその描法を真似て建築を精巧に描き、劇的な光と影の演出が加えられている。彼はこの若い国家に栄光をもたらすようなアメリカ独自の題材を好んでとりあげ、アメリカ的民主主義を表現した。彼はワシントンD.C.に赴いて新しい議事堂をスケッチし、そこに80人の議員を描き入れた。劇的効果を上げるため、また民主主義の原則への議員たちの献身が昼夜行われていたことを強調するため、夜のシーンにしている。この絵はニューヨークで展示された際、あまり人気にならなかった。むしろジョン・トランブルが少し前に描いた『アメリカ独立宣言』の方が賞賛を浴びた。モールスの方は夜のシーンにしたために画面が暗く、何が起きているのかわかりにくかったのかもしれない。

1825年にはニューヨーク市から1,000ドルでアメリカ合衆国の独立を支援したフランス人ラファイエット侯爵の肖像画を依頼された。アメリカ独立を支援した人物として堂々とした肖像を描かなければならない感じたモールスは、壮大な日没を背景に描いた。ラファイエット侯爵の右手には3つの台座があり、2つの胸像がそこに描かれている。1つはベンジャミン・フランクリンの胸像、もう1つはジョージ・ワシントンの胸像で、残る台座がラファイエット侯爵のために用意されていることを暗示している。ラファイエット侯爵とは独立戦争について語り合い、モールスは大きな影響を受けた。

1825年、ニューヨークナショナル・アカデミー・オブ・デザインを設立。初代所長を務める(1826年-1842年)。また、ニューヨーク大学の美術教授も務めた。

Gallery of the Louvre (1831-33)

1830年から1832年にかけて、イタリアスイスフランスとヨーロッパを旅行して周り、絵画の修行をしている。フランスでは作家ジェイムズ・フェニモア・クーパーと親交を深めた[3]。また、ルーヴルの名画38作品を1つのキャンバスに模写した The Gallery of the Louvre という作品を描いた。この作品はアメリカに戻ってから完成させている。

1839年にもパリを訪れ、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールに会い、初期の写真ダゲレオタイプに興味を持つようになった。モールスは New-York Observer 紙にその発明について投稿し、それがアメリカ各地の新聞に掲載されて注目されるようになった[4]

モールスの絵や彫刻の作品の一部は、ニュヨーク州ポキプシーにあるモールスが住んでいた屋敷ローカスト・グローブ(英語版)に展示されている[5]

電信

モールスの最初の電信機の図面

1825年、ワシントンD.C.でラファイエット侯爵の肖像画を描いているとき、馬に乗ったメッセンジャーが父からの「妻危篤」のメッセージを携えて現れた。モールスはすぐさまニューヘイブンに向かったが、到着したときには既に埋葬が済んだ後だった[6]。妻の最期を看取れなかったことに傷ついたモールスは、高速な長距離通信手段の研究を始めた[7]

1832年、大西洋横断中の船内で電磁気学に詳しいボストンチャールズ・トーマス・ジャクソン(英語版)と出会う。ジャクソンの電磁石を使った様々な実験を見て、モールスは電磁石の導線を延伸させて一方の端で電流を断続させた場合、反対側の電磁石の磁気が変化する結果として信号を送ることができると考えた。モールスは描いていた The Gallery of the Louvre を脇に置き電信の着想を発展させ始めた。特許出願の際に提出されたモールスの最初の電信機はスミソニア協会国立アメリカ歴史博物館が所蔵している[8]

そのころ、他の人々も電信のアイデアを生み出していた。1833年、ヴィルヘルム・ヴェーバーカール・フリードリヒ・ガウスが電磁石を使った電信装置を作り、それを参考にしてウィリアム・クック(英語版)チャールズ・ホイートストンが電信を初めて商業化した。クックが電信を知るのは1836年で、モールスより4年遅いが、モールスよりも資金力があった。クックは元々は解剖学者だったが、電信を知るとそれに熱中し、3週間で電信機を製作した。ホイートストンもアメリカの科学者であるジョセフ・ヘンリーの業績に基づいて電信の実験を行っており、信号を長距離伝送するには、1つの電池を大型化するよりも小さい多数の電池を接続した方がよいという重要な発見をしている。1837年5月、クックとホイートストンは共同で電信の特許を取得し、すぐさまグレート・ウェスタン鉄道に21kmに渡る電信線を設置した。しかしクックとホイートストンの電信は複数の電信線を必要とするもので、後に1本の電信線で済むモールスの方式に取って代わられた。

1848年、モールスは友人への手紙で、電信の唯一の発明者と呼ばれるためにどれほど精力的に戦ったかを記している[9][10]

継電器

レナード・ゲール。電信信号の長距離伝送の達成を助けた。

モールスは、数百ヤード以上の電線では信号が減衰してしまい、長距離伝送できないという問題に直面した。突破口となったのはニューヨーク大学の化学の教授レナード・ゲールの洞察である(ゲールはジョセフ・ヘンリーの友人だった)。ゲールの助けを得て、モールスは電信線の途中に一定間隔で継電器を設置し、16km以上の信号伝送に成功。間もなくモールスとゲールは、資金力と洞察力を持つ若者アルフレッド・ヴェイルと出会う。1838年1月11日、ニュージャージー州モリスタウンにあるヴェイルの父が経営する鉄工所で、電信の公開デモンストレーションに成功した。継電器を使わない状態では伝送距離は2マイル (3km) が限界であり[11]、彼らは念入りに計画して2マイルの電信線を工場の建物内に敷設した。最初に送ったメッセージは "A patient waiter is no loser" であり、多くの見物客がそれを目撃した[要出典]

1838年、ワシントンD.C.に赴いたが、連邦政府から支援を引き出すことには失敗した。そこでモールスはスポンサー獲得と特許取得のためヨーロッパに行き、ロンドンでクックとホイートストンが既に電信を商業化していることを知る。

連邦政府の支援

1842年12月、モールスはワシントンD.C.の下院司法委員会室と最高裁判所の間で電信線を張り、約40メートルの距離でメッセージのやり取りを行う実験を行った。この実験は成功し、電信が実用的な通信手段として機能することを示した。

1843年、議会はワシントンD.C.とボルチモア間の電信線の建設と電信機の開発・試験に30万ドルの予算を承認した。

1844年5月1日、ザカリー・テイラーがホイッグ党の大統領候補に指名されたというニュースが、ボルチモアからワシントンD.C.までの約61キロメートルの距離を電信で2時間以内に伝送された[12]

世界初の電信局を示す記念銘板

1844年5月24日、ワシントン-ボルチモア間の電信が正式に開通し、最初の電報としてモールスはワシントンからボルチモアに "What hath God wrought" という聖書の一節を送った[13]。この言葉を選んだのは、米国特許商標庁長官 Henry Leavitt Ellsworth の娘である。Ellsworth はモールスの特許を擁護し、早くから出資者となった。このときの電信では、1分間に30文字を送信可能だった[14]

1844年5月、ワシントンD.C.を拠点に電信網を敷設するため、電磁電信会社(Electromagnetic Telegraph Company)を設立しました。

モールスは電信の伝送手段として、水や鉄道線路など導体を一時的に検討したものの、電線の方が実用的と判断し採用しました。「電信の発明者」の称号をめぐり訴訟に発展しましたが、モールス符号の発明には共同研究者であるアルフレッド・ヴェイルの貢献も大きく認められています。

初期のモールス電信機は、単語や数値を符号化する方式でした。点(トン)と線(ツー)の組み合わせで、単語やフレーズを表していました。その後、ヴェイルは実用性を追求し、文字ごとに符号を割り当てる「文字符号」を考案しました。文字の使用頻度や符号の組み合わせを分析し、より使いやすい体系を構築しました。このヴェイルの文字符号は、改良を経て現在の国際モールス符号へと発展しました。一方、アメリカではヴェイルのオリジナルに近い符号体系が「アメリカン・モールス符号」として現在も使用されています。

電信の普及

電鍵を手にしたモールス

1847年、イスタンブールにてアブデュルメジト1世から電信の特許を授与された。1849年にはアメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選ばれた[15]

1850年代にはコペンハーゲントーヴァルセン美術館を訪れ、フレデリク7世から勲章を受章。お礼としてモールスは1831年に描いたベルテル・トーヴァルセンの肖像画を王に贈った。その絵は現在マルグレーテ2世が所有している。[16]

モールス符号は、1851年に開催されたパリ国際電信会議において、ヨーロッパにおける電信の標準符号として推奨されました。しかし、イギリス(および英連邦)は当時、独自に開発したクックとホイートストンの方式を採用しており、ヨーロッパ大陸とは異なる符号体系を使用していました。その後、イギリスも1904年にようやくモールス符号を正式に採用しました。[17]

1851年にウエスタンユニオン電信会社(Western Union Telegraph Company)を創設した実業家ヒラム・シブレー(Hiram Sibley)は、電信技術の開発者であるエズラ・ワーナー・ファーマー(Ezra Warner Farmer)とジェイ・ディヴィッド・モース(Jay David Morse)を招聘し、1861年にニューヨークとサンフランシスコを結ぶ大陸横断電信線を完成させました。。

1872年、プエルトリコを皮切りに南米での電信網整備が進められる中、モールスの長女スーザン・ウォーカー・モース (1821-1885) は、父サミュエル・モールスが設立した電信会社プエルトリコ・テレグラフ社の業務に携わっていました。 彼女は、プエルトリコの首都サンフアンで、デンマーク人実業家エドワード・リンドと出会い、結婚しました[18]

1858年、エドワード・リンドはプエルトリコのアロヨにサトウキビ農場「ラ・テンダーラ」を購入しました。その後、サミュエル・モールスは冬の間リンドの農場で過ごすようになりました。モールスはアロヨの市街地にある娘のスザンナの自宅と農場を結ぶ約3キロメートルの電信線を建設し、1859年4月2日に開通式を行いました[19][20]

モールスがプエルトリコで最初に送った電報は、次の通りである[18]

"Puerto Rico, beautiful jewel! When you are linked with the other jewels of the Antilles in the necklace of the world's telegraph, yours will not shine less brilliantly in the crown of your Queen!"

モールスが Harrison Gray Dyar の業績から電信のアイデアを得たと主張する歴史家もいる[21]。Dyar はモールスが特許を取得する18年も前に電信を発明している。

奴隷制度支持、反カトリック主義、反移民

モールスは19世紀中ごろ、反カトリック主義と反移民運動のリーダー的存在だった。1836年、反移民を掲げる Nativist Party からニューヨーク市長選に出馬したが、わずか1496票しか集められず敗退した。ローマを訪れた際は教皇の前でも帽子をとらなかった。これを見たスイス衛兵が駆けよって帽子を叩き落したという[要出典]。カトリック組織に対抗してプロテスタントを団結させるため、「公的機関からカトリック教徒を追放する、カトリック国からの移民を制限する」といった法改正を主張。モールスはこれについて「我々はまず船に泥水が入ってくるのを止めなければならない。さもなくば沈没する」と書いている[22]

また、当時弟のシドニーが編集者を務めていた新聞『ニューヨーク・オブザーバー』[注釈 2]によく投稿しており、カトリックの脅威と戦うべきだと主張した。それらの記事は他の新聞にも転載された。他にも、オーストリア政府とカトリック教団がアメリカを支配するために助成金を与えてカトリックの移民を増やそうとしていると主張していた[23]

著書 Foreign Conspiracy Against the Liberties of the United States[24]では、カトリックが単なる宗教ではなく政治システム、政治的な陰謀と専制のシステムだと主張した。

1850年代、モールスはアメリカの奴隷制を擁護しはじめ、神によって是認されているとした。"An Argument on the Ethical Position of Slaver" という論文で次のように記している。

奴隷制についての私の見方は短い。奴隷制は本来、罪ではない。それは神の知恵によって世界の始まりから定められた情け深く賢明な社会的状態である。したがって奴隷を所有していることは人格的なものとは無関係であり、親になったり、従業員を雇ったり、支配者になるのと何の違いもない[25]

結婚

1818年9月29日、マサチューセッツ州コンコードにて、ルクレチア・ピカリング・ウォーカーと結婚しました。二人は4人の子供をもうけました。しかし、1825年2月7日、3番目の子供を出産後にルクレチアは亡くなってしまいます。その後、モールスは1848年8月10日、ニューヨーク州ユーティカにて、サラ・エリザベス・グリズウォルドと再婚しました。サラとの間には4人の子供をもうけました。

後半生

1866年の正装した写真

アメリカでは1837年に電信システムに関する特許を取得し、その後1840年に改良版の特許を取得しました。しかし、これらの特許は訴訟の対象となり、電信システムの基本的な原理について特許を保持していることは認められたものの、電信線の具体的な建設方法やモールス符号体系については特許が認められませんでした。

1858年には、ヨーロッパ各国から長年に亘ってモールスの特許を無視してきたことについて申し入れがあり、フランスを中心に各国政府が協力して40万フランの謝礼金を贈りました。

モールスは電信のほかに大理石や石で彫刻を作るための工具も発明しましたが、特許を取得することはできませんでした。彼は財産の多くを慈善活動に費やし、亡くなった際の遺産は約100万ドルと推定されています。

栄誉と受賞

1871年に立てられたサミュエル・モールス像(ニューヨーク、セントラル・パーク
モールスの肖像が描かれた1940年のアメリカの切手

海外からは様々な栄誉と賞賛が贈られました。しかし、アメリカ国内での評価は当初低く、彼の業績を称える動きは限定的でした。1871年6月10日、ようやくニューヨークのセントラルパークにブロンズ像が建立されました。その後、1896年にはアメリカの2ドル紙幣にロバート・フルトンと共にモールスの肖像が描かれ、彼の功績が広く認知されるようになりました。サンフランシスコ連邦準備銀行のウェブサイト「American Currency Exhibit」では、当時の2ドル紙幣の画像を確認できます[26]

1813年から1815年まで彼がロンドンで住んでいた場所 (141 Cleveland Street) にブルー・プラークが設置されている。

1872年4月3日のニューヨーク・タイムズに掲載された死亡記事によると、モールスは、オスマン帝国からダイヤモンド付きの勲章(1847年ごろ[27])、プロイセン王国から金の嗅ぎタバコ入れ(1851年)、ヴュルテンベルク王国から金メダル(1852年)、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から金メダル(1855年)、フランス皇帝からレジオンドヌール勲章、デンマーク国王から勲章(1856年)、スペイン女王から勲章を受章・受賞している。他にもポルトガル王国の勲章(1860年)と聖マウリッツィオ・ラザロ勲章(1864年)も受章。1988年にはモールスの電信実験がIEEEマイルストーンに選ばれた[28]

1999年12月31日号の特集「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」にて、LIFE誌は様々な分野から1000年間で最も重要な功績を残した人物を選出した。このリストには、政治家、科学者、芸術家、宗教指導者など、様々な人物が含まれている。LIFE誌の調査によると、アメリカ人と分類される人物は22人に留まり、ヨーロッパ出身者が最も多かった。

2012年3月31日、Googleはエイプリルフールのジョークとして、携帯電話でモールス符号を打ち込んでテキストを送信できる "Gmail Tap" を発表しました。これは、モールス符号の生みの父であるサミュエル・モールスに敬意を表したジョークでした。実際に動作するアプリも開発され、多くのユーザーが楽しみました[29]

特許

  • US Patent 1,647, Improvement in the mode of communicating information by signals by the application of electro-magnetism, June 20, 1840
  • US Patent 1,647 (Reissue #79), Improvement in the mode of communicating information by signals by the application of electro-magnetism, January 15, 1846
  • US Patent 1,647 (Reissue #117), Improvement in electro-magnetic telegraphs, June 13, 1848
  • US Patent 1,647 (Reissue #118), Improvement in electro-magnetic telegraphs, June 13, 1848
  • US Patent 3,316, Method of introducing wire into metallic pipes, October 5, 1843
  • US Patent 4,453, Improvement in Electro-magnetic telegraphs, April 11, 1846
  • US Patent 6,420, Improvement in electric telegraphs, May 1, 1849

脚注

注釈

  1. ^ 1961年、イェール大学は12のカレッジの1つをモールスにちなんで モールス・カレッジ と名付けた。
  2. ^ 20世紀に創刊された『ニューヨーク・オブザーバー』とは無関係

出典

  1. ^ “Samuel F. B. Morse”. 2006年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年2月14日閲覧。
  2. ^ Wendy Bellion, Citizen Spectator: Art, Illusion, and Visual Perception in Early National America, Chapel Hill: UNC Press, forthcoming.
  3. ^ David McCullough, The Greater Journey, Americans in Paris, Simon & Schuster, 2011, ISBN 978-1-4165-7176-6
  4. ^ “The Daguerrotipe”. The Daguerreian Society. 2008年9月25日閲覧。
  5. ^ “The Collection at Locust Grove”. 2011年2月23日閲覧。
  6. ^ Bellis, Mary (2009年). “Timeline: Biography of Samuel Morse 1791 - 1872”. The New York Times Company. 2009年4月27日閲覧。
  7. ^ Bellis, Mary (2009年). “The Communication Revolution”. The New York Times Company. 2009年4月27日閲覧。
  8. ^ “Morse's Original Telegraph”. National Museum of American History, Smithsonian Institution. 2008年6月4日閲覧。
  9. ^ McEwen, Neal (1997年). “Morse Code or Vail Code? Did Samuel F. B. Morse Invent the Code as We Know it Today?”. The Telegraph Office. 2009年10月17日閲覧。
  10. ^ Samuel F. B. Morse, His Letters and Journals by Samuel F. B. Morse
  11. ^ McCullough, David (September 2011), “Reversal of Fortune”, Smithsonian 42 (5): 80–88  Morse then devised a system of electromagnetic relays, and this was the key element, in that it put no limit to the distance a message could be sent.
  12. ^ Stover, John F. (1987). History of the Baltimore and Ohio Railroad. West Lafayette, Indiana: Purdue University Press. pp. 59–60. ISBN 0-911198-81-4 
  13. ^ Wilson, Courtney B. (200?). The Baltimore & Ohio Railroad Museum: The Birthplace of American Railroading. Baltimore, Maryland: Traub Company. p. 11. ISBN 1-932387-59-5 
  14. ^ Gleick, J (2011), The Information: a History, a Theory, a Flood, London, Fourth Estate, p144
  15. ^ “Book of Members, 1780-2010: Chapter M”. American Academy of Arts and Sciences. 2011年4月22日閲覧。
  16. ^ “Samuel Morse - Arkivet, Thorvaldsens Museum”. 2021年6月11日閲覧。
  17. ^ “Franklin and his Electric Kite-Prosecution and Progress of Electrical researches—Historical Sketch of the Electric Telegraph—Claims of Morse and others—Uses of Electricity—Telegraphic Statistics.”. New York Times. (November 11, 1852, Wednesday). "It was in the month of J, a century ago, that Franklin made his celebrated experiment with the Electric Kite, by means of which he demonstrated the identity of electricity and lightning." 
  18. ^ a b NY/Latino Journal; Taking the PE Out of PRT; by: Rafael Merino Cortes; July 20, 2006
  19. ^ “150th. Anniversary of the Foundation of Arroyo, Puerto Rico”. Elboricua.com. 2012年5月14日閲覧。
  20. ^ “Welcome to Puerto Rico”. Topuertorico.org. 2012年5月14日閲覧。
  21. ^ Swayne1906, p. 241: "Harrison Gray Dyar of Concord erected the first real line and despatched the first message over it by electricity ever sent by such means in America. This may seem strange to most of our readers," says Alfred Munroe in Concord and the Telegraph, "as the credit of this great discovery has been generally conceded to Prof. Morse, but the latter deserves credit only for combining and applying the discovery of others."
  22. ^ Billington, Ray A. 'Anti-Catholic Propaganda and the Home Missionary Movement, 1800–1860' The Mississippi Valley Historical Review, Vol. 22, No. 3, (December, 1935), pp. 361–384. Published by Organization of American Historians. Jstor.org
  23. ^ Curran, Thomas J. International Migration Digest, Vol. 3, No. 1, (Spring, 1966), pp. 15–25 Published by The Center for Migration Studies of New York, Inc. Jstor.org
  24. ^ “''Foreign conspiracy against the liberties of the United States'' (1835)”. Archive.org. 2012年5月14日閲覧。
  25. ^ From An Argument on the Ethical Position of Slavery in the social system, and its relation to the politics of the day (New York, Papers from the Society for the Diffusion of Political Knowledge, no. 12, 1863) in Slavery Pamphlets # 60, Beinecke Rare Book and Manuscript library, Yale University. Quoted in "Yale, Slavery, & Abolition," an online report on Yale honorees, at Yaleslavery.org
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  27. ^ According to Turkish PTT e-telegraph page history section, the Ottoman ruler was the first head of state to award a medal to Morse and it was issued after the demonstration in Istanbul.
  28. ^ “Milestones:Demonstration of Practical Telegraphy, 1838”. IEEE Global History Network. IEEE. 2011年7月26日閲覧。
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参考文献

  • Reinhardt, Joachim, "Samuel F. B. Morse (1791–1872) Congo, 1988".
  • Mabee, Carleton, The American Leonardo: A Life of Samuel F.B. Morse (1943, reissued 1969); William Kloss, Samuel F.B. Morse (1988); Paul J. Staiti, Samuel F.B. Morse (1989) (Knopf, 1944) (Pulitzer Prize winner for biography for 1944).
  • Samuel F. B. Morse, Foreign Conspiracy Against the Liberties of the United States: The Numbers Under the Signature (Harvard University Press 1835,1855)
  • Kenneth Silverman, Lightning Man – The Accursed Life of Samuel F.B. Morse (De Capo Press 2004)
  • Paul J. Staiti, Samuel F. B. Morse (Cambridge 1989).
  • Lauretta Dimmick, Mythic Proportion: Bertel Thorvaldsen's Influence in America, Thorvaldsen: l'ambiente, l'influsso, il mito, ed. P. Kragelund and M. Nykjær, Rome 1991 (Analecta Romana Instituti Danici, Supplementum 18.), pp. 169–191.
  • Tom Standage, The Victorian Internet, (London:Weidenfeld & Nicholson, 1998) pp. 21–40.
  • Prime, Life of S. F. B. Morse (New York, 1875)
  • E. L. Morse (editor), his son, Samuel Finley Breese Morse, his Letters and Journals' (two volumes, Boston, 1914)
  • Swayne, Josephine Latham (1906). The Story of Concord Told by Concord Writers. Boston: E.F. Worcester Press 
  • Iles, George (1912), Leading American Inventors, New York: Henry Holt and Company, pp. 119–157, https://archive.org/details/leadingamericani00ilesrich 
  • Andrew Wheen, DOT-DASH TO DOT.COM: How Modern Telecommunications Evolved from the Telegraph to the Internet (Springer, 2011) pp 3-29
  • James D. Reid, "The Telegraph in America: Its Founders, Promoters and Noted Men" New York: Arno Press, 1974.
  • Robert Luther Thompson, "Wiring A Continent, The History of the Telegraph Industry in the United States 1832-186" Princeton University Press, 1947.
  • Vail, J. Cummings (1914). Early History of the Electro-Magnetic Telegraph, from Letters and Journals of Alfred Vail: Arranged by his Son, J. Cummings Vail. New York: Hine Brothers 
  • Wolfe, Richard J. / Patterson, Richard (2007). Charles Thomas Jackson - "Head Behind The Hands" - Applying Science to Implement Discovery and Invention in Early Nineteenth Century America. Novato, California: Historyofscience.com 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、サミュエル・モールスに関連するカテゴリがあります。
英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。
Samuel F. B. Morse
  • 図書館にあるサミュエル・モールスに関係する蔵書一覧 - WorldCatカタログ
  • サミュエル・モールス - Find a Grave(英語)
  • Speech of Morse given at the National Academy of Design, 1840, ダゲレオタイプについて
  • Reminiscence by Morse 初期のダゲレオタイプについて
  • Samuel Finley Brown Morse Papers, 1911–1969 (call number JL016; 42.5 linear ft.) are housed in the Department of Special Collections and University Archives at Stanford University Libraries
  • Booknotes interview with Kenneth Silverman on Lightning Man: The Accursed Life of Samuel F.B. Morse, February 22, 2004.
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